真似をする側、される側の責任

マネと転売について。の今週。

今日は「真似」についてです。

 

以前、マネと言うことについてプロ野球選手の話を聞いたので

先にそのことを書いていきますね。

 

よく子供って、選手の真似をします。

打ち方や投げ方、走り方、動作全てをマネをして

試合ともなるとその選手になりきってバッターボックスに向かうんです。

 

そういった野球が大好きな子供たちに、

その野球選手は言っていました。

 

「真似はどんどんした方が良いです。

マネをするということは動きをよく見ていないと出来ないから。

見て、身体を動かして、考えて…

という過程が自然と生まれる。

そうすることでだんだん自分の形もできてくるから上手にもなる。

だからどんどんマネしてください。」

 

と言うようなことを話していたんです。

 

なるほどなー。って思ったんですよね。

特に我が家の子どもたちは少年野球をやっていたので

身近なことでしたし、腑に落ちました。

 

マネすることから成長は始まりますが、

マネだけでは、ただのコピーにすぎません。

マネからどういった成長をすることができるのか?

そこをせず、楽をしようとするとことに問題があります。

 

マネをする側は責められることですが

では、マネをされる側には何も問題はないのでしょうか?

野球選手は、マネはどんどんした方が良い。と言います。

しかし、彼は、その言葉通りマネそのものを良しとしているわけではなく、

上手になるためのキッカケとしてマネすることを1つの提案として話しただけですね。

 

人はどうしても、言葉そのもの。

要は見えている部分しか見ることができません。

でも、見えるようになるまでの「過程」。

「見えない部分」がありますよね。

 

野球選手の話しでは「見えないところ」と言うのは

「考える」

という部分です。

 

ただ見て、身体を動かして、真似るだけでは上達はしません。

そこに「考える」という過程があることで

細かい動きを意識します。

 

近い動きが出来ているか。

試し、

結果(試合でヒットを打てたか等)を分析し、

自分に合っている動きへと変えていく。

 

その「過程」は自分だけの経験。

同じことを人がやっても、同じ結果が出るとは限りません。

 

「過程」は、「想い」「スキル」「理論理屈」といった「見えない部分」となります。

 

「想い」「スキル」「理論理屈」から生まれたものが

発想(デザイン)を経て、

見ることができるようになります。

 

その「見えない部分」は

自分の中に何となく抱えているだけになってしまうんですが

文字や言葉として表現することができているか?がポイントです。

 

マネをされてしまう場合、この「見えない部分」をオープンにしていないが故に

マネされやすくなってしまいます。

誰も知らないのなら、誰がマネしたって、マネだってわからないから、マネし放題でしょ?

 

真似をされるということは、マネをされる側にも何らかの問題があります。

いたちごっこな面もありますが

マネされにくくなる手を「自分が」打ちましょう。